2008年2学期講義、学部「哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」  入江幸男
大学院「現代哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」

         第12回講義 (20081月20日)  

      §17 フィヒテによる「アプリオリな知」の理解

 

1、幾何学の知の例

(以下は、フィヒテ『180102年の知識学の叙述』、『フィヒテ全集』第12巻、晢書房、からの引用)

 

「任意の角を一つ描きなさい」

「このように描かれた角を第三の直線でもって閉じなさい。君は君たちが実際に囲んだ線のほかに一本ないし、数本の線(すなわちより長いか、より短いかの線)でもってこの角が閉じられうると想定するだろうか。」

「もし彼がこれに答えて、我々の期待通りに、彼はそのことを決して想起しないといるならば、我々はかれにさらに問うであろう、すなわち、かれはこのことを自分の考えであり、標準とならない、かつもちろんさらなる訂正に甘んずる意見と見なすか、あるいはかれはそれを知っている、全く確実にかつ安全に知っていると信ずるかと。」

 

「彼は、それを全く確実かつ安全に知っていると信じる。」

「他の可能的な辺の間の他の可能的な角が、一本以外の多くの第三辺において行なわれることであるとみなす。」

「彼の言葉を理解しさえする端的にあらゆる理性的存在者はこの点において必然的に彼と同じ確信であると信ずる」

「かれは問題になったこの二つの点について思念しているのではなくて、決定的にあることを知っていると信ずる」

 

「彼がつぎのように答えるならば、すなわち無限に可能な辺の中に囲まれた無限に可能な角のうち端的にどの角も唯一可能な第三辺以外の辺をもって閉じられることはできないということ、端的にいずれの理性的存在者も同じ確信をもっていなければならないということ、上記の命題が両者、すなわち、無限に可能な角についても、また無限に可能な理性的存在者に対しても絶対的に妥当することを彼は確信するということ。」239

 

「つまり、表象作用の恒常性、確固性、不動性をもっていることを確信している。」

 

無限の角について同じことが繰り返される。

「この度の引線において、決してこの度の引線だけでなく、引線ということをこの条件のもとで、すなわち、この一定の角を閉じるために、一般的にかつ端的に無限の反復可能性においてただ一瞥を持って見渡すと思い、かつ実際に見渡さなければならなかったのである。」

 

「彼が言明した知の主張が根拠をもつべきであるとするならば、かれが決してこの角を閉じるために引線に注意するのではなく、むしろ一般的にかつ端的に、一般に角を閉じるために線を引くということに注意せねばならなかったのであり、そしてこのことをそれの無限に可能的なさまざまの場合においてただ一瞥をもってみわたさねばならなかったのである。」240

 

知っているというためには、よく似たケースでよく似た判断が可能であるという信念が伴っていなければならない。

 

 

「さらに上記の命題は単に彼に対してだけでなく、かの命題が表現する言葉を理解しさえするなら単手にすべての理性的存在者に対して妥当すべきであった。」240

 

「かくして読者は、決して個人としての自己や、自己の個人的な判断に注意してはならず、むしろ全ての理性的存在者の判断に注意し、これをただ一瞥をもって見渡し、自己の心魂を超えてすべての理性的存在者の心魂へ注目しなければならなかったのである。」241

 

知っているというためには、私とよく似た理性的存在者がよく似た判断をすることが可能であるという信念を伴っていなければならない。

 

「最後に、この全てを総括すれば、彼は知ると主張し、したがって永遠に別様には判断しないと約束することによって、彼はこの瞬間において下した判断をあらゆる未来に対してと同様にあらゆる過去に対しても、もしそこにおいてこの対象について判断が下されるとするならば、[この判断を]確定するのである。」

 

知っているというためには、永遠に同じように判断するという信念が伴っていなければならない。

 

「かくして、上に言明された知の主張が、根拠を持つべきならば、彼は自己の判断を決してこの瞬間に下されたものとして考察するのではなく、むしろ自己と全ての理性的存在者の判断を端的にあらゆる時間において、すなわち、絶対的に無時間的に見渡すのである。」241

 

 

「表象作用の多様、この多様は、上記の知の構成において明らかになったように、あまねく同時に無限なものであろうが、これをかように絶対的に総括し展望することは以下の仕事においては「直観」と称される。知は、直観の中にのみ矢すらい、かつそこに存立するということが先の構成において明らかになったのである。」242

 

2、考察

(1)フィヒテによる「アプリオリな知」の理解

知の特徴は次のようにまとめられるだろう。

●知っているというためには、よく似たケースでよく似た判断が可能であるという信念が伴っていなければならない。

●知っているというためには、私とよく似た理性的存在者がよく似た判断をすることが可能であるという信念を伴っていなければならない。

●知っているというためには、永遠に同じように判断するという信念が伴っていなければならない。現在の私だけでなく、未来の私、過去の私も。現在の理性的存在者だけでなく、未来の理性的存在者も過去の理性的存在者も。この対象だけでなく、未来の対象、過去の対象も。

●この特徴は、「直観」という形式において可能である。

 

我々は、これに言語を超えているという信念を付け加えることが出来るかもしれない。

 

 

(2)「アプリオリな知」への適用

フィヒテは、全ての知はアプリオリであると考えるので、これはアプリオリな知にも妥当することになる。仮に、全ての知がアプリオリであると考えないとしても、ここの考察は、アポステリオリな知にも妥当するようにおもわれる。

「あらゆるものは、他の点でいかにさまざまであろうとも、知において、それの統一において、人がまさに知と名づける同じ仕方で知られるであろう。」243

●「これはリンゴだ」と知っているとき、似たような対象について似たような判断することができる、という信念を伴っている。

●「これはリンゴだ」と判断するとき、私のこの場所に、同じような理性的存在者であるほかの人がいたとすると、同じように「これはリンゴだ」と判断するだろう、という信念を伴っている。

●また私と似た理性的存在者が似たような状況で似たような対象について似たような判断をする、という信念を伴っている。

 

(3)アプリオリな知とアポステリオリな知の区別

アプリオリな知とアポステリオリな知の違いは、次のように説明できるだろう。

●アポステリオリな知は、私が他の人と時間空間的な立場や歴史社会的な立場を交換することによって、他の人にも可能になるという信念を伴う知である。

●アプリオリな知は、立場の交換をすることなく、どのような立場にあっても、全ての理性的存在者に可能であるという信念を伴う知である。

 

 この定義は、以前に提案した、アプリオリの定義と矛盾しない。それと連言で結合することが出来る。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

(注)フィヒテにとっては、全ての知はアプリオリである。

フィヒテによると、全ての知は、知の知=絶対知=直観からうまれてくるものであり、

全ての知はアプリオリであるという。宇宙がビッグバンから生まれてくるのに似たイメージを持つ。(フィヒテの絶対知については、拙論「観念論を徹底するとどうなるか」(『ディルタイ研究』18号、2007年)を参照してください。)

 

()知がこのような特徴を持つといえるならば、私的な感覚と同じく、永井均氏の<私>についての言明は、知ではない。

 

(注)知のこのような理解は、ヘンペルの因果性の理解に似ている。ヘンペル著『科学的説明の諸問題』長坂源一郎訳、岩波書店。「全ての知は、法則の事例である」といえるかもしれない。